7月のある日の感想

すべてはオタクの妄想

すずめの戸締まり - 3つのミスリードとすずめの旅の意味について考える

新海誠監督「すずめの戸締まり」。

初見時は震災描写に対する衝撃が大きく、作品のメッセージを捉えきることができませんでした。(初見時感想→「すずめの戸締まり」初見覚え書き - 7月のある日の感想

わたしの一番の疑問点は

すずめは4歳の頃の自分に「未来は明るい」と言って常世を去るシーン

それで解決でよいのか、ということでした。お母さんと会わないままですずめの想いは救われるのだろうか、と感じたからです。

その後、パンフレットや入プレの新海誠本を読み、2回目の鑑賞を終えてあらためてその疑問について考えていると、3つのミスリードとこの作品が伝えたかったこと、すずめの旅の意味なんとなく見えてきたのでそのことについて書いておきたいと思います。

©2022「すずめの戸締まり」製作委員会

①セリフによるミスリード:「常世は死者の場所」

草太はすずめが各地の後ろ戸の中身見る世界、それはすべての時間が一緒にある「常世」であると言います。そしてそれは「死者の赴く場所」である、と。宗像祖父もまた「常世は美しいが、死者の場所」という説明があります。

映画を見ている私たちはこの時点では、4歳のすずめが扉の向こうで会ったのはお母さんだと思っているので、なるほどそうだと感じると思います。

でもその女性が16歳のすずめだと分かってから考えると、あの場所には死者なんていなくて、ただあの311の景色とすずめ1人だけがいたということが分かります。

宗像祖父のはこうも言っていました「常世は、見るものによってその姿を変える」。

すずめにとっての「死者の赴く場所」としての常世は、亡くなったお母さんがいる場所ではなく、自分にとって死が一番近くにあった場所だったのではないでしょうか。

 

②物語の構造によるミスリード:各地をまわって戸締まりしていく物語

この作品は色々なところで「各地をまわって扉を締めていく物語です」と説明されていました。そして実際、宮崎→愛媛→神戸→東京と、草太とすずめが人々と土地との間にあった思い出が忘れられて開いてしまった後ろ戸を締めていくことで物語が展開していきます。

だから、一見すずめが最後に訪れる扉も、その流れの一つとして考えてしまいます。

でもあの扉は、内側から開いた扉ではありません。扉の表面にはツタが絡み、すぐに開きそうにはない扉、それをすずめ自身が見つけて開いたものでした。観光施設や学校と違って、多くの人々が通ったものでもないはずです。

あの扉は、それまでの4つの後ろ戸とは全く性質が違う、すずめ個人の想いが残された扉だったのです。

 

③タイトルによるミスリード:「すずめの戸締まり」

各地の後ろ戸を締めてまわったすずめですが、最後に12年前に開いた扉をまた開いて「常世」へと入っていくことになります。あの扉は12年前を最後に閉じたままになっていました。それは、黒塗りのすずめの絵日記や、うまく思い出せない常世の景色と重なります。

すずめがここまで旅してきた意味は、「戸締まり」ではなく、12年前の扉をもう一度開くことにあったのではないでしょうか。扉を開き、あの日の記憶にもう一度会いに行く、それがすずめに必要なことだったのです。

 

すずめの旅の意味

作品の主題、すずめの旅の意味、それは

戸を開き、閉じ込めていたあの日の記憶に会いに行く

ことだったと私は考えます。

4歳の頃の常世での記憶は、お母さんがいる美しい世界としてすずめの中に記憶されていました。

でもそこには、お母さんなんていなくて、常世はすずめにとっての死の世界だった。

本当はどこかで分かっていたはずだったけれど、絵日記と共にあの場所へ置いてきてしまっていたのです。

扉を開いて4歳の頃の記憶に向き合い、そのことを思い出した。それこそ、自分の心の中のお母さんとの決別であり、今を生きていくという決意になったのだと感じました。

最後の「行ってきます」は、あの日の自分に向けた言葉だったのではないでしょうか。

 

この映画の帰結は、誰でも受け入れられるものではないし、押し付けるべきものでもないでしょう。いなくなってしまった人をどこかに感じながら、生きていける人たちだってたくさんいるはずです。

だから簡単にこのメッセージを素晴らしい、ということは出来ませんが、新海監督が伝えたかったこととしては理解できたような気がします。